長崎地方裁判所 平成2年(わ)317号 判決 1992年1月14日
主文
被告人を懲役三年に処する。
未決勾留日数中三〇〇日を右刑に算入する。
この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
(犯行に至る経緯)
被告人は、昭和一六年に妻Aと結婚し、終戦後復員してからは、同女の実家である長崎県南高来郡南串山町に住んで、主に建設作業員として稼働し、同女との間に子ができなかったため、昭和三〇年に養女Bと養子縁組をしたが、同四七年に同女が結婚し家を出てからは、妻Aと二人暮らしとなり、昭和五八年ころには建設作業員を辞め、同女と年金で生活をしていたものである。
被告人と妻Aとの間においては、当初こそその収入を被告人名義で預貯金していたが、その後、同女が自分名義の貯金もないと楽しみがないといったことからやがて夫婦別々に銀行口座等に貯金を持つようになり、昭和五八年ころ被告人が退職し年金生活に入ってからは、両人の口座の区別が厳密になり、大きな出費がある場合には、Aの方が年金受給額が多いにもかかわらず、同女が一向に自分のお金を出さないことから、被告人において支払うことが多くなり、被告人はこのような妻のけちなやり方に不満を感じていた。
被告人は、平成二年一一月一五日、午前中の日課である畑仕事を終えて帰宅し、午前一一時ころから、台所の椅子に腰掛けて焼酎を生のままで飲み始めたところ、妻A(当時七二歳)が、数日前に郵送されてきた契約者及び被保険者が被告人、保険金受取人が妻Aとなっている簡易保険の生存剰余金六三万三六〇〇円の支払い通知を被告人の前に差し出し、「これは降ろすけん。」と言ってきたが、被告人は、右保険の受取人は同女になっているが、加入者で保険料を実際に負担してきたのは被告人であるうえ、直ちに金が必要な用件もなく、そのまま貯金しておけば利子がつくことから、生存剰余金は引き出さずにおこうと考えた。
被告人は、妻Aに対して、「取らずにおれば、三、四年もすると六〇万円は八〇万にもなるとぞ。今は働きよらんとやけん、入って来るとは利子だけぞ。」と言って、右引き出しに反対した。これに対し、同女は、「そげんこと言って貯めようと思っとるじゃろ。」「受取人はこっちになっとるけん、降ろす。」等と執拗に言い張るため、被告人はこれを腹だたしく思い、台所で焼酎を生でたてつづけに飲み始めた。
(罪となるべき事実)
被告人は、以上のような経緯の下、長崎県南高来郡<番地略>の被告人方において、同日午後二時ころ妻Aが台所の被告人のもとにやってきて、なおも右通知を見せながら「名前はおいの名前じゃもん。」等と執拗に生存剰余金の引き出しを主張したため、これに立腹し、同女に対し、手挙で頭部・顔面等を殴打したが、なおも、剰余金を引き出すと言いはる同女に対し、その後同日午後一一時ころまでの間、腹立ちまぎれに焼酎を飲んで酩酊の度を強めながら、数次にわたり、手挙で頭部・顔面等を殴打し、背部等を足蹴にする暴行を加えたうえ、居間に向かって押し倒し、同間にうつ伏せに倒れた同女をなおも叩こうと同間に入ろうとした際、敷居につまずき、同間東側アルミサッシガラス戸に頭を強打したことから、一層激昂し、同女の背部・臀部等を足で踏みつけ、肩たたき棒<押収番号略>で頭部等を滅多打ちするなどの暴行を加え、よって、同女に頭部・顔面及び胸背部打撲による皮下出血、筋肉内出血並びに胸骨及び肋骨骨折による胸腔内出血等の傷害を負わせ、同日午後一一時ころ、被告人方居間において、同女を右傷害に基づく外傷性ショックにより死亡させたものである。
(証拠の標目)<省略>
(弁護人の主張に対する判断)
一 弁護人は、本件犯行当時、被告人は多量の飲酒のため、被害者に致命傷を与えた最終段階においては心神耗弱の状態にあったから、刑法三九条二項に基づいて刑の減軽をすべきであると主張するのでこの点について検討する。
二 前掲各証拠によれば、本件犯行の動機は、被告人が、妻が生存剰余金の引き出しを執拗に主張することに立腹してのものであることが認められ、それ自体充分了解可能な動機であることが認められる。しかしながら、前掲各証拠によれば、被告人は、本件犯行当日、午前一一時すぎから焼酎を少なくとも一升以上、被告人の供述によれば約一升八合を飲んでおり、右飲酒量はそれ自体をとってみても、また、被告人が平素は焼酎の一升瓶を三日位であけることに比しても、極めて多量の飲酒量であることが認められる。そして、被告人の本件犯行についての記憶についてみるに、本件犯行当日の朝からの行動、妻Aと生存剰余金の件で口論になり、妻Aに対し最初の暴行を振るうに至るまでの経緯については比較的詳細な記憶を有していることが認められる。しかし、その後の記憶に関しては、被告人は、捜査段階の供述調書及び実況身分調書において、その暴行の態様を三段階にわけて説明したり、また、個々の暴行について臨場感のある供述を行っている部分はあるものの、当初の暴行を振るった以後の状況に関する供述は一貫しあるいは全体として詳細であるとは言いがたいうえ、当公判廷における供述及び第二回公判調書中の被告人の供述部分によれば、被告人は妻Aに暴行を開始して以降のことは実際には殆ど覚えておらず、捜査段階における供述は、思い出したものというよりは、妻への詫びや供養のため記憶がないのでは済まされず、何とか客観的状況に符合する供述を行おうとして考えながら述べたものである旨供述していること、Cの司法警察員に対する供述調書によれば、同女が午後三時四〇分ころ、被告人方に焼酎二本を配達し、被告人よりその代金を受け取っていることが認められるにも関わらず、被告人には一貫してその旨の記憶がないこと、被告人は逮捕当初においては、焼酎を飲み始めたのは午後五時か五時半である旨述べていたにも関わらず、右配達の事実が明らかになってからは、飲み始めた時間が午前一一時からと大幅に変わってきており、その時間の差は単に思い違いとするには大きすぎることが認められるのであって、これらの事実に被告人の前記多量の飲酒量を考えあわせると、被告人には妻への暴行を開始して以後の記憶に関しては部分的な欠落が多くあることは否定できないものと認められる。また、本件犯行は、その動機において充分了解可能であるとはいえ、その態様は、判示のとおり外傷性ショックにより死に至らしめるほどの強力かつ執拗なものであって、それが約五〇年間もの長きにわたり連れ添ってきた妻に対するものであることを合わせ考えると、その動機と態様の間は著しく均衡を欠いているものと言わざるをえない。
三 ところで、本件犯行においては、被告人の酩酊下の犯行であって被告人から詳細の供述を得られないことや目撃者もないことから、被告人が妻Aに対して暴行を開始した時刻、被告人の飲酒量の時間的経過、妻Aに対する暴行の終了時刻、同女の死亡時刻などの認定について困難が生ぜざるをえないのであるが、前記Cの司法警察員に対する供述調書によれば、同女が被告人宅に焼酎を配達した時間は午後三時四〇分ころであり、その時点において妻Aが土間の方から台所の方にあがろうとしており、その右顔面がどす黒くなって目はみえないように腫れあがっていること及び被告人が既に酔っており興奮した様子であったが焼酎の代金は被告人が払ったことが認められることや、右配達前には被告人の供述によると当日八合ぐらい残っていた焼酎を飲んでいたことからすると午後三時四〇分以前において既に妻Aと生存剰余金の件で口論となり、同女に対する暴行を開始しているが、その時点での飲酒量は八合以下であり、一升の飲酒がさらにこの後に行われていること、妻Aに対する暴行は未だ同女が立ち歩ける程度のものであったことが認められ、その後、判示居間における執拗、強度の暴行が加えられ、致命傷を負わせたものと推測される。
四 以上二、三に照らして、鑑定人金澤彰作成の鑑定書の鑑定理由を検討すると、同鑑定書が述べるように、被告人は、酩酊に至るに充分な量の酒を飲んでおり、右飲酒によって、本件犯行の初めの時期には単純酩酊の状態にあったが、その後、本件犯行の中核的な行為を行った時期には複雑酩酊の状態になっていたものであって、右状態において、被告人の是非善悪を弁別する能力は著しく減退しており、それに従って行為する能力は著しく減退していた。すなわち被告人は犯行途中より心神耗弱の状態になったと認めるのが相当であると判断される(これに対し、被告人は普通酩酊状態であったとする吉浦一成の鑑定書は、被告人が本件犯行を相当詳細に記憶していることを前提にしているものであるが、その前提事実については、前述のとおり被告人の記憶には部分的欠落が散見されることに鑑みると、疑問が残るものと言わざるをえず、採用できない。)。
五 そこで、更に検討するに、本件は、同一の機会に同一の意思の発動にでたもので、実行行為は継続的あるいは断続的に行われたものであるところ、被告人は、心神耗弱下において犯行を開始したのではなく、犯行開始時において責任能力に問題はなかったが、犯行を開始した後に更に自ら飲酒を継続したために、その実行行為の途中において複雑酩酊となり心神耗弱の状態に陥ったにすぎないものであるから、このような場合に、右事情を量刑上斟酌すべきことは格別、被告人に対し非難可能性の減弱を認め、その刑を必要的に減軽すべき実質的根拠があるとは言いがたい。そうすると、刑法三九条二項を適用すべきではないと解するのが相当である。
よって、弁護人の主張は採用しない。
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法二〇五条一項に該当するので、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中三〇〇日を右刑に算入し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。
(量刑の理由)
本件は、妻と別々に口座を持ち貯金しているのに大きな出費がある場合などに自分の貯金を出そうとはしない妻の吝嗇に日頃から不満を持っていた被告人が、妻が契約者である被告人の意図に反して簡易保険の剰余金の引き出しを執拗に主張したことに立腹して判示の暴行に及び被害者を死亡させた事案であって、妻の執拗な態度にも問題がないとは言えないものの、右は夫婦であれば当然話し合って解決すべき事柄であることからすれば動機において同情の余地に乏しく、犯行態様も長時間の間に、老齢の妻に対し、手挙で殴り、足蹴にし、さらには肩叩き棒を用いて頭部等を殴打したもので執拗かつ悪質であり、これにより貴重な人命を失うことになった結果も極めて重大で、被告人の刑事責任は重い。
しかしながら、他方、本件犯行は、計画的なものではないこと、犯行途中より飲酒の影響のため複雑酩酊の状態に陥りそのため犯行がエスカレートした面があることは否定しえないこと、被告人自身、本件犯行によって約五〇年もの長きにわたり連れ添ってきた妻を失ったもので自責の念は強く、本件犯行を真摯に反省していること、右反省の現れとして、法律扶助協会に対し二〇〇万円の贖罪寄付をし、また、妻の墓を立てていること、被告人はこれまで前科前歴はなく社会人として真面目に稼働してきたものであって、現在七七歳の高齢であること、被告人の養女が当公判廷において被告人の今後について面倒を見る旨約束していること等被告人に有利な情状も認められ、これに、被告人はすでに一年以上にわたり勾留されていることを併せ考えると、被告人に対し直ちに実刑をもって臨むことは相当でなく、被告人に対しては今回はその刑の執行を猶予し、社会内において自力更生の機会を与えるのが相当と思料した次第である。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官赤塚健 裁判官坂主勉 裁判官浦島高広)